エスペラントで西洋文学を読む

"La Aventuroj de Ŝerloko Holmso"(シャーロックホームズの冒険)、"La Eta Princo"(星の王子さま)、"Metamorfozo" (カフカ『変身』)。誰もが一度は耳にしたことのある、こうした西洋文学の多くがエスペラントに翻訳されている。

 

しかし、早速いくらか不満を言わせてもらえば、ケストナーの『飛ぶ教室』が翻訳されていないのはおかしい。ナチス焚書扱いされた栄誉ある児童文学がなぜ、同じように権力によって弾圧された言語に訳されていないのだろう。

 

さらには、国際語を名乗るこの言語を通じて、サリンジャーやケルアックといった、戦後のアメリカに出会えないことも自分を落胆させた。エスペラントはまだ、世界を獲得する前夜の、あの熱狂を表現できるほどに洗練されてはいないということか。

 

それでも、日本エスペラント協会の湿気った書棚の中から大好きな諸作品を見つけた時は、密かな趣味が増える喜びを噛み締めずにはいられなかった。

この密かな趣味を共有できる密かな仲間に出会うため、ここに、エスペラントで読める私の大好きな作品たちを紹介する。

 

 

ヘルマン・ヘッセ "Demian" (邦題:デミアン

 

ノーベル文学賞も受賞した、ドイツの作家ヘッセの大きな転換点と言われる小説である。ただしそれは、ヘッセ自身の個人的な転換ではなく、ヨーロッパ精神そのものが歴史によって強いられた時代的な転換であった。第一次世界大戦は感受性豊かな西洋の知識人たちを危機に陥れた。人類最初の総力戦が人間の精神や尊厳、そして近代的自我なるものを巨大な鉄の塊によって容赦無く踏みにじっていったからだ。そのため、戦後、この精神的な荒廃の中から、彼らは再度人間精神を価値付ける術を探さねばならなかった。例えば精神分析家が個人の内奥に人類の普遍を求めたり、芸術家がシュルレアリスムによって無意識の領域を暴き出そうとしたように。

ヘッセもまたその例に漏れなかった。みずみずしく、淡い郷愁に満ちたこれまでの小説から一転、デミアンは明らか神秘主義的で、おどろおどろしささえある。ユング心理学の影響も見出せるし、キリスト教に門外漢な読者には理解し難い議論もある。    

 

小説自体は主人公シンクレールの少年、青年時代の経験世界を回想的に追っていくものである。少年シンクレールにとって世界は二つに分かれていた。美しい宗教歌が響き、清廉な父と母のいる家という明るい世界、一方、暴力や性的なものに満ちた街の裏通りなどは暗い世界である。彼の唯一の親友は学校で出会ったデミアンという神秘的な少年だけ。デミアンと出会ったシンクレールは暗い世界にも自ら突き進み、時にほとんど狂気に近い孤独や、神秘的なデミアンの母との交流を経て、最後には戦地へ赴く。

 

私が一番好きなのは最後のシーンだ。戦争で負傷したシンクレールがベッドの上で目を覚ますと、側にはなぜかデミアンがいる。デミアンは「もう君は僕を必要としないだろう」と、別れの言葉とキスを交わし消えていく。私はここに、神秘主義に飲み込まれそうなギリギリのところで留まり、戦後のこの現実世界を歩んでいこうと踵を返すヘッセ自身の決意を感じた。暗い世界があって明るい世界がある。その共犯的構造を受容し自らの道を歩み始める時、青年は大人になる。いつかきっと、シンクレールは自らの明るい世界を築くことができるだろう。

 

ディーノ・ブッツァーティ “La dezerto de la tataloj”(邦題:タタール人の砂漠)

 

現代イタリア文学の中でも広く日本で知られているのはこの小説だろう。希望を抱いた若き士官ジョバンニ・ドローゴは、眼前に茫漠とした砂漠の広がる辺境の砦に配属された。彼はそこで、いつやってくるかもわからないタタール人の襲来に備えて日々軍事訓練や実務に励んでいた。いつか故郷に帰れるだろう、いつか軍務をやめて都市に戻り新たな生活を始めよう、そう思っているうちに人生はどんどんと過ぎていく。しかし、砂漠のほうはいつまでも姿を変えず、幻想的な月明りに照らされ、霧がたちこめている。タタール人はいっこうに攻めてこない。毎日毎日同じことが繰り返される。確かに、敵の到来を予感させる出来事もあった。しかし、それも誤解であったようで、何も起こらず、夢見る日々が続いていく。そして、気づいた時にはドローゴの人生は終盤に差し掛かっている。

 

あらすじはほとんど意味をなさない。この小説を貫く幻想的な静けさや、時間が過ぎ去ることの残酷さが不思議と美しく感じることも、実際に読むという読書体験によってしか味わえない。

 

実を言えば、私はこの小説と類似した光景に出会ったことがある。韓国と北朝鮮との国境付近を案内してもらった時のことだ。案内してくれた方はエスペランティストで、かつて6年間軍役につき、国境付近に配属されていたそうだ。薄緑色の田園だけが広がる静かな国境付近にはいくつか小高い丘がある。その頂上には要塞があって、彼はその要塞の重要性を嬉しそうに語ってくれた。朝鮮半島はもう半世紀以上休戦状態である。それでも彼はいつかやってくる襲撃をどこかで期待しているようでもあった。

 

ちなみに私自身は、この小説をエスペラントでしか読んでいない。正直、エスペラント版では少なくない誤字脱字が目についた。また、「城壁に空いた銃を差し込み撃つための穴」など、日常的に使わない単語も頻出するため、エスペラント学習のために読むのはおすすめしない。

 

置賜地方旅行記 その2

赤湯温泉 丹波

我々一行が赤湯駅に着いたとき、すでに日は暮れかけていた。

駅を出るとコンビニはおろか、気軽に立ち寄れそうな食事処もないようだった。

ロータリーにある観光案内図によれば、温泉街まで2,3キロはある。

この日の日中は、厳しい日差しの下、米沢市内をレンタルサイクルで観光したため、皆疲れ切っていた。

そんな体調で歩かねばならないのは実に憂鬱であった。

 

赤湯といえばそれなりに知られた温泉街だが、最近では赤湯ラーメンなども全国的に有名になり、観光地としても栄えているようである。

道路にはひっきりなしに車が走っていて、とてもじゃないが落ち着いた気分になれなかった。

 

我々が温泉街に到着したとき、すでに日は落ちきっていた。

道路沿いに無料の足湯があったので、まずはそこで足を休め、どの温泉に入るか協議した。

 選んだのは丹波館という日帰り入浴も可能な旅館である。

大正ロマンを感じさせる作りで、一目で気に入った。

靴を脱ぎ、一歩館内に足を踏み入れると、柔らかい絨毯の感触が疲れ切った我々を優しく出迎えてくれた。

館内の灯りは柔らかく、どこか懐かしい印象があった。

 

脱衣場はとても清潔であった。これなら、風呂場もきっと、手入れがきちんと行き届いているだろう。

いざ、湯への扉を開くと、硫黄の匂いが鼻を突いた。

しかしその匂いは、決して硫黄自身を主張せず、ただ湯の存在を予感させる程度にとどまっていた。

白い蒸気がすぅーっと晴れて、立派な湯船が顔を見せた。

 

湯は、無色透明であった。

 

透き通った源泉が、静かに湯船に注がれ、音もなく湯船の外へ流れ去っていく。

ところが、その静けさとは反対に、湯の温度は熱かった。45,6度はあったかもしれない。

それでも、赤湯地域の源泉は60度ほどであるそうなので、何らかの形で温度を下げていることになる。

この温泉が加水されたものであったか否か、正直今でもわからない。しかし、加水するとすれば、人々が浸かりやすいようもっと温度を下げるはずだ。

この湯の絶妙な熱さに、加水をぎりぎりで踏みとどまった湯守の決断を感じずにはいられない。

湧出口の湯は触れないほど熱かったので、きっと湯量をコントロールすることで温度を調節しているのだろう。

 

内湯の他に、露天風呂もひとつあった。

十分にかけ湯をし、いざ入湯。

それは、湯というより、透明なエネルギーだった。

地中に堆積した想像を絶するほどの悠久な時間が、湯という形をとって凝集していた。

微粒子ひとつ入り込めないほどに、存在が充溢している。

その時初めて、もっとも充溢した空間は真空と一致するのだと理解した。

永遠の歓喜には、悲しみの入り込む余地が微塵もないのと同様に。

 

風呂場から出ると、足の裏に固い何かを感じた。

珪藻土マットだった。

よく見ると狭い脱衣場の半分以上は珪藻土マットが敷き詰められている。

おかげで、床が濡れていることに起因するあの不快感が一切なかった。

それだけではない。ドライヤーも、美容院で使われるような大きくて風力の強いものだった。

脱衣場ひとつとっても、この旅館の客への配慮が並々ならぬものであることがわかる。

ロビーに置いてあるふかふかの椅子に座り、しばし温泉の余韻に浸ったのち、我々は湯屋を後にした。

 

湯屋の前には、薄暗いコンクリートの道が伸びていた。

しかし、後ろを振り返ると、湯屋は確かに存在した。

 

置賜地方旅行記 その1

白布温泉

5月5日、我々一行は米沢駅西口から出ている白布温泉行のバスに乗り込んだ。

他にも乗客が幾人か乗っていたが、観光名所となっている上杉神社前で我々以外全員降りてしまった。

ただ、そこから一人の青年が乗ってきた。バスはしばらく米沢市内を走り、その後険しい山道を登り始めた。

出発から50分後、ようやく白布温泉入口へと到着した。我々以外の唯一の乗客であった青年もそこで降りた。

彼は降りるとすぐに、慣れた感じで山道を登りはじめ、あっという間に遠くへ行ってしまった。

白布温泉(しらぶおんせん)は温泉街というにはあまりにも小規模なので、どう表現してよいのかわからない。山形と福島の県境の山あいに、県道が通っており、その道沿いにいくつかの温泉旅館が点在している。それらを総称して白布温泉と呼ぶようだ。

バス停からちょっと上ると、そば屋がある。日帰り客にとって唯一の食事処だ。ここで食べたわらびは旬なだけあってめっぽう美味しかった。我々が食べ始めるころ、先ほどバスで一緒だった青年も店に入ってきた。

彼はあっという間に食事を終え、またも我々より先にどこかへ消えていった。

店主の息子と娘と思われる自分と同じ年くらいの男女が働いていた。店を出る際、「おしょうしな~」と言われた。この地方の方言で「ありがとう」という意味らしい。

食後すぐに温泉に入るのは良くないと聞いていたので、運動がてら山道をさらに登り、ロープウェイで天元台高原へと向かった。

この高原にはスキー場があり、GWが最後の運営だった。この時期の残雪は湿っぽくスキーにはまったく向いていない。スキー場の人もまばらだった。

雪に足が埋もれぬよう慎重に歩き展望台へ出た。遠くに朝日岳鳥海山が見えた。一匹のカラスが湿った春風に乗って飛んでいた。することの特にない我々は、壮大な景色を眺めながら山手線ゲームに興じた。

下山後、どの湯屋に入るか迷ったが、一番趣のあった西屋を選んだ。白布温泉で唯一茅葺屋根を残しており、館内も古い作りだった。

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 脱衣所と湯船を隔てる戸を引くと、筆舌に尽くしがたい光景が眼前に飛び込んできた。滝のように源泉が降り注ぎ、湯船からざぶざぶと、とめどなく湯が溢れている。

幸い我々の他に客はなかった。滝つぼのような湯船に身を投げ、湯の流れに身を任せた。この地は開湯700年だという。700年間この湯は湧出し、流れ続けてきた。

様々な顔や声が生まれては消えていく。それでも源泉はただ流れ続ける。湯に浸かっていると、流れているのか、止まっているのか、次第にわからなくなった。

どれほど源泉が表情や声を変え、様々な現象を生起させようとも、その根底に大いなる統一があるのは間違いなかった。

ちょうど湯を出るとき、ぞろぞろと人がやってきた。スキーの帰りに寄った客たちだろう。

彼らの会話は訛りがひどくてほとんど聞き取れなかったが、露天風呂のないことに不満を感じていることはわかった。

なんだかひどく惨めな気持ちなったので、髪もちゃんと拭かずに風呂を後にした。

 

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米沢市内に帰るため、バス停に行くと、例の青年がベンチに座ってバスを待っていた。

日が暮れる中、我々を乗せたバスはゆっくりと山を下って行った。ふと、うたた寝から目覚めると、青年の姿はなかった。

バスが最上川を渡り、街の灯りが窓の外でゆらゆらと揺れていた。